信教の自由とは偏見を持つ自由のことなり。

靖国参拝では、個人的には首相は参拝すべきでないと考えてるが参拝する権利はあると思う。首相も国民だから憲法が定める信教の自由はある。
 ともかく私はuumin3氏ほど「宗教リベラル」(笑)ではないが、無宗教主義の押し付けはあってはならないと考えている。
 信教の自由が守られるにはまず偏見を持つ自由が守られなきゃいけない。
以下多少脚色したが実話。

 あるエセリベラル(ヘタレサヨク)教師Bの場合。彼は中学校で歴史を教えてる。熱心で生徒からも人気がある。絶対平和主義者で、ことあるごとに戦争の悲惨さを強調している。一般的にいえば左翼。授業中によく脱線してそっち方向の話で授業の3分の1が潰れることもよくある。
 教師Bはそうやってちょっとメディアと変わった視線で生徒に話をするのを生きがいにしていた。生徒の方も歴史そのものよりもよっぽど面白いので脱線に期待していた。
 そんなある日、話は二ケーア公会議から宗教の方へ脱線した。教師Bはその日もいかにメディアは偏向してるか熱く語った。
 「いいですか。宗教は皆同じです。法の華オウム真理教キリスト教も仏教もイスラームもみな同じ。どれが優れていてどれが劣っているなんてないんだよ。異端も正統もない。今メディアはヒステリックに法の華を叩いてますがその点に気をつけて見るように」
 これを聞いた生徒Cは腸が煮えくり返る思いを感じた。(はぁ、何でキリスト教法の華みたいなエセ宗教と同じなんだよ。イスラム教だって間違った宗教のはずだ。)
 Cの両親は実は熱心なクリスチャンであり、Cも信仰して洗礼を受けていたのだ。Cは早速両親に打ち明けた。Cの父親も憤慨した。「キリスト教がオウムと一緒だと!」
 こういうことが何回もあったのでたまりかねたCの父は保護者会でBに注意した。BはCの父のオブセッシブに引きつった顔をみながら、まるで経験者が困りものの未熟者に応対するかのように「あのですね、宗教はみな同じなんですよ。」(あなたは偏見に犯されてるだけなんです)といった。
 まだ教師の力が強かった時代のこと。彼がその話をやめることはCが卒業するまでとうとうなかった。Cはその度にBに殺意を感じたがなんとかこらえた。