靖国参拝は信教の自由があてはまるか?

 id:uumin3さんのエントリに、首相の靖国参拝は信教の自由には当たらない、とコメントしたところ、丁寧なご批判を頂いた。
 一見私の宗教認識や主張を批判してるみたいだが、内実むしろ私の主張を補足してると思う。
 後半については確かに偏見に満ちたようなレトリックを使ってしまった。しかし、私自身別に日本の宗教観についてポジティブにもネガティブにも捉えていない。(もちろんみんながポジティブなら相対的にネガティブだといえるが)私が言いたかったのは宗教観が西洋と日本では異なる、ということ。クリスマスの例は不適当だったかもしれないが、日本的宗教が、無規範で祭り的騒ぎという性質をもつのは事実だろう。
 それは軽いノリだった故に、血みどろの宗教戦争を起こさなかったというよい面もある。しかし、だからこそ西洋的な信教の自由がそのまま当てはまるとは思えない。
 そもそも西洋の信教の自由はカトリックとプロセスタントとの血みどろの宗教戦争を得て確立した。つまり宗教は生の根幹にかかわる極めて重たいものであり、それは個人によって異なる。それを踏みにじると紛争になるという理解に基づいて信教の自由という発想がある。
 したがって確かに日本のような祭り的、共同体的な軽いノリの宗教も列記とした宗教だろうが、わざわざ信教の自由を持ち出して守るほどのものではない。
 もちろん日本は近代国家だから、重いノリで宗教を信仰する自由は守られるべきだし、軽いノリの人や無宗教の人が重いノリの宗教を強制されるようなことはあってはならない。しかし、軽いノリの人が一回くらい神社に参拝できないことなどどうでもよい。わざわざ信教の自由を適用するのは仰々しいと思う。
 もちろん重い、軽いなんて私の主観、偏見だという批判があるだろう。しかし西洋的、日本的くらいにおおざっぱに分けることは可能だ。西洋的な宗教観と日本的な宗教観がズレてる以上、西洋的な宗教観に基づいた信教の自由が極めて日本的な神社参拝にそのまま適用されるわけではないと思う。
 また前半だが、uumin3さんは人権を普遍主義の立場からとらえていないようだ。基準を金におくというのは、国民の利益に反すれば首相の権利が制限がされることを認めたことになる。ならば首相に参拝の自由があるという前にそれが国民の利益に反するか考えるべきだと思う。